歴史と文化

歴史

館石野Ⅰ遺跡

 縄文時代後期の大規模集落跡。環状列石(ストーンサークル)とは異なった直線状の列石で、非常に特異な列石であることから注目を集めています。これら配石の目的は、死者の埋葬、祭事や信仰の場と考えられています。近くには、ほぼ完全な形で遮光器土偶が出土した浜岩泉Ⅱ遺跡があります。

光器土偶

三閉伊一揆

 幕末に浦賀にペリー率いる艦隊があらわれ我が国が開国へと動き出した江戸時代末期、当時最大級の農民一揆が佐々木弥五兵衛・畠山太助という田野畑村の指導者らにより導かれ、歴史に深く刻み込まれる大きなうねりを巻き起こしました。1847年(弘化4年)と1853年(嘉永6年)に三閉伊地方で起こった2つの一揆を合わせて「三閉伊一揆」と呼び、その政治性、組織性、思想、戦術など計画的であり、終始統制され百姓一揆の到達点と言われるとともに、目的通り最後には盛岡藩政の改革へ至らしめ、自らの生命と暮らしを守った義民一揆として讃えられています。

石浜(軍艦浜) 戊辰戦争古戦場跡

 1869年(明治2年)3月25日の宮古湾海戦に敗れた旧幕府軍の艦船「高雄」は、函館への敗走途中、田野畑沖で新政府軍の艦船に追い着かれたのち石浜の岩礁に乗り上げ、乗員は陸路の敗走を図りました。なかには田野畑村にそのまま住み続け、巡査や教師など勤めた人もおり家系が残っています。「高雄」は木造船であったため、現在は海底にも残骸は残っていません。

かつてはアイヌ文化で栄えていた!?

田野畑にはアイヌ語が語源と思われる「地名」、そして個々の岩や浜辺そして岬などを示す「名称」がいたるところにあります。名付けられた時代背景などは詳しく研究されておらず不明ですが、今でも地元の人たちが特定の場所や漁場の地点を示す場合などに日常的に使われています。

【例】 甲地地区の西に広がる林→蝦夷森、北山崎付近の岬→カードカシリ(シリとはアイヌ語で「島」や「峰」を指す)、オマルベ峠→(オマ・ル・ぺ→奥地へ・行く・場所)、ハイペ(ハイ・ぺ→イラ草・場所)、コイコロベ(コイ・コロ・ぺ→うねり・ある・場所)

文化

先人達が守ってきた古き良き趣を大切し、海と大地の恵に感謝して生きる。

漁村の町並み(島越)

 島越地区の海沿いの高台は、山肌に沿って家々が建ち並び、狭く急な坂道や階段そして迷路のような路地が生活道路となっており、神社や小さな祠が多く見られるなど昔からの漁村の生活を感じ取ることができます。同様の漁村風景は平井賀地区や羅賀地区でも見られましたが、平成23年3月11日の津波により大半が流失してしまいました。

机浜番屋群

 番屋群は昭和8年の三陸大津波以降徐々に再築されてできたもので、昭和50年代頃までは海産物の保管や漁具の収納場所として、また浜作業や寝泊りの場として盛んに使われていました。机浜番屋群は昭和期の漁村風景として、平成18年「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に水産庁から指定され、サッパ船クルーズや各種漁業体験プログラムによって四季を通じ旅人と住民の賑わいがありましたが、やはり大津波によって全てが流されてしまいました。現在は、この昭和期の原風景と交流の場を復活させるため「机浜番屋群再生プロジェクト」を立ち上げ、全国のサポーターと共に番屋群の再生を進めています。

伝統芸能

【菅窪鹿踊】(すげのくぼししおどり)

 鎌倉時代初期に武蔵国秩父からこの地に入った畠山一族が伝えたとされ、頭が本物の鹿を模した姿である鹿踊りは全国に2ヶ所だけしかない事から貴重とされます。1988年(昭和63年)岩手県無形文化財に指定。

【大宮神楽】(おおみやかぐら)

 古くから近江の国の山伏神楽として和野地区に伝わった後、大宮神社のある羅賀地区にて伝承維持を続け現在に至っています。神楽の巡業は、健康と招福、厄払いや火伏せ、新築の際の柱固めなど信心のよりどころとなっています。1993年(平成5年)岩手県無形文化財に指定。

達人は地元でも一目置かれる!

田野畑では昔から、腕の良い漁師や浜仕事の達人を「ハンモウド」、山や森で腕の立つ仕事人は「ヤンモウド」と独特の呼び名を使って讃えています。あなたも浜や山で、ハンモウド・ヤンモウドを捜してみてください。

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